自分が痛みの中にある時、他者の痛みを想像できる人が、どれくらいいるだろう。
自分の痛み、と言うけど、単に「自分がツラい」という意味ではなく。
大事な人を守れなかったり、その無力感に泣いたり、する時。
真剣であればあるほど、その苦しさは果てしないと思います。
私にもそういう時がありました。昨日とか今日、そういう状況でした。
誰かに、泣きつきたく、なりました。
「気持ちを吐露しているだけ」と、言い訳をして。
それを見た他者が、同情してくれるだろうと、その共感を自分の糧にしようとしました。
別に恥ずかしいことではないかも知れない。
社会の中で、それは痛みの中にいる人々にとって、大きな力になることがある。そのシーンも、メディアなどでよく見ます。
だから、私も同じように、無自覚にそういう態度をとったんだと思います。
もっと言うなら、大昔、何年も前。ずっとそういう態度をとっていたんだと思います。
その結果顰蹙を買うのは、私に非があるから、と思うようにしていますが。
触れたら痛いんです。痛すぎる。私の痛みは、特に、他人に伝染してしまうたぐいの痛みなんだと思います。
それを知っているのだから。
『SA.』5話で、まさに書きました。
「貧弱ではならぬ」「コントロールしろ」
話は変わって、私がずっと憧れている方のことを話します。
世界を背負っておられるその方は、人間です。常人を超えていらっしゃるかもしれなくても、人間です。
これが、端折りますが私の「挑戦」の、テーゼです。
あの人は、世界で一番優しい方なので、痛みを負った人が助けを求めたら、必ず助けられる方です。
でも、私には気づくことがありました。
必死に助けを求めてきた、傷ついた手を引っ張る、そっちの方の手が痛くないことなんて、あるだろうか?
全部のみ込んで、助けておられるんだと。
そんな不遜なことを、考えるのも恥ずかしい。でも、想像するだけなら、そこまで罪でもないと思って、想像しています。
想像力。
私が自分の痛みに負けて、あの人の痛みを想像できない瞬間がある。
そうでありたくはないです。
そうでありたくはないです。
助けて欲しいと思ったとして、助ける側の痛みを想像できないなど。
「自助努力しなさい」という意味では無いと思います。
想像すること。誰かの痛みを、想像すること……。
その先にある世界は、たぶん、コレも想像なんですけど。
私が、私自身が、「誰かが痛んでいる時に、傷ついた手を引っ張る」側に、立つ世界。そうありたいと、私がそうありたいと思える人間であることを、きっと。
信じてもらえているんだと、思う。
だから、想像しなさいって。教えてもらっていると思う。
「痛い!!」と泣き叫んで、手を引っ張ってもらいたい、それは、恥ずかしいことでもないです。
でも、お前はそちら側に居たいわけじゃないだろう。そういう意味じゃないかと思う。
「圧倒的に強くなれ」「誰よりも優しくなれ」と言われるのは、そういう意味じゃないかと思う。
長々と書きましたが、想像力があれば、誰よりも強くなれると。きっと、教わっています。
イマジネーションは力なんだ。全てを超えていく力。
それを、見出してもらえていることを。誇りにしたい。
だから、どれだけ痛くても、「雪が降っても私のせい」って思うことにします。
雪が降ることにも、責任を負える立場に、そういう生き方をするほうに、行くんです。
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