Xに投稿しようと思ってた内容を、こっちがあるじゃん(長文も書ける)という理由で書いておきます。
個人的な覚書になります。
過去に少し描いた、自作のマンガのことをXで喋っているときに、テーマについて『鋼の錬金術師』(以下、『ハガレン』)に気持ちよく喧嘩を売ってる、という話をした
「テクノロジーの肯定」であると。
テクノロジーはすべてを超えていく。社会正義や、倫理や道徳、分をわきまえろと押さえつける声(つまりは大いなる世界の在り方)、それらに明確に叛逆する力であり意志。
テクノロジーとは、ひとの作りしもの。創りしものとは表現の刃。表現者の手足をもごうとする世の中の声も、暴力も理不尽も痛みも、すべてを超えていく、その力ひとつで。
※ものもないのに、いきなり語りまくって恥ずかしい。
これは作者の価値観であり、『know』の書評(過去記事こちら)のときにちょっと話しました。
端的に、『ハガレン』と真逆なんです。んで、そのテーマは荒川弘先生の価値観なんだろうとおもてる。
これは荒川先生や、『ハガレン』の批判ではないですよ。「コンニャロ!」と思うってことは、それだけの強い影響を受けてるって意味になります。
横道にそれた。ウィンリィについての気づきを喋ろうと思ってた。
ウィンリィが、スカーが両親の仇だと知り、拳銃をスカーに向けるってシーン。
細部は単行本が今、手元にないので、すぐ引用することができずにすまないんですが……。
結局撃たずに済んで、エド(とアル)が、二度とそんなことをしないでくれ。ウィンリィが銃を人に向けるところなんて……お前の手は人を救う手だ、みたいなことを言う(頼み込む)という流れだったと思う。
良いシーンです。それは間違いないんですが。
そのシーンを今日ぼーっと思い出してて、ウィンリィって、どこまで行っても「銃後の妻」なんだな……って思った。
エドとアルは、言うたら平気で敵に武器を突き付ける立場なのに、ウィンリィにはそれを絶対にさせないんやなと。
ウィンリィ、活躍するヒロインですし、全然守られキャラとかじゃないと思いますが。
この部分は徹底してるなって感じます。物語ラストにしてもそうですよね。一緒に人々を救うための戦いの旅には、ついていかない。
(最後まで書いてからの追記:主人公の『帰る場所』というポジションなんだろう。だから銃後の妻なんだ)
いっぽう、ホークアイ中尉は、銃を手に取るキャラクター。
マスタング大佐が「この女(ひと)も人殺しの目になってしまった……」みたいに思うシーンはあるけど、止めはしないし、双方、明確に武器を持って戦う。彼らは主人公と対照的に、手を汚すことをいとわないわけで……。
大人と子供の描き分けかな、って思ったけど。いや、むしろウィンリィとホークアイ中尉の対比かな?
外伝で、明らかにこの二人は対比させて描かれてたから、間違いなさそうだなと思った。
じゃあ、やっぱり「ウィンリィ=内助の功の妻、銃後の妻」は、意識して描かれてるんだろうな。
特にオチはなく語りました。
でも、きっとこの手の考察は、世間では10年以上前に終わっているだろう!/(^o^)\
荒川先生には本当影響を受けすぎているので。っていうだけの話題でした。
今の作品では『アルスラーン戦記』が大好きです。
自分の作品も、いつかなんかにしたい……というより、もっとちゃんとした物語作品として、ブラッシュアップすべきって話かもしれない。
「IPの創造は無理ゲー過ぎるから手を出すな」と習っているので、いつも及び腰です。畏れ多くて恐ろしい。